エセー7

私は東京のアテネ・フランセでフランス語を学びたい。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を原書で読みたいためだ。そのためにフランス語の辞書を通読している。そう思いついたのは沼津市立図書館でかりたフランソワ・トリュフォー監督作品『突然炎のごとく』と『大人は判ってくれない』という映画を観たことが大きい。私はそれを観たとき「映画を撮りたい!」という気持ちにかられた。ギリシア悲劇ソフォクレスが著した『アンティゴネー』を私なりに解釈しアレンジし舞台を沼津に置き換えて映画を撮ってみたい。シナリオはジャン・コクトーの『オルフェ』や『美女と野獣』のシナリオを参考にすることにする。アテネ・フランセにはフランス語教育の深い歴史がある。沼津を盛り上げたい気持ちと立教大学の立教ヌーヴェル・ヴァーグを「沼津ヌーヴェル・ヴァーグ」の活動へと参考にしていきたい。アテネ・フランセでも映画の勉強会が行われているのでがんばって参加していきたい。

エセー6

妹がイタリアへ旅行へいった。バチカン市国から絵葉書が数日後家に届いた。私は妹に触発されてイタリア文学やラテン文学に関心を持つようになった。ダン・ブラウンが著した『インフェルノ』の映画を観て、ダンテの神曲の<地獄篇>を読んでみたり、ダンテが触発されたウェルギリウスの『アエネーイス』を県立図書館から借りて読んでいる。そして、ウディ・アレン監督の『ローマでアモーレ』を笑いながら観ている。イタリアへ私は行きたくなってきた。キケロの『弁論家について』はローマ帝政期の〝弁論事情〟をキケロがせきららにつづっている。その筆致は黄金がほとばしる如くであるが、プラトンの『ゴルギアス』に通じるものがある。『古典ギリシア語文典』を時には声に出し、時には筆写し、たたきこんでいる。恩師の朴一功先生には「ローマナイズもできないのか!」と叱責の言葉をいただいたことがあったが、『古典ギリシア語文典』は、古代、プラトンソクラテスが話していたアッティカ方言のギリシア語文法になっている。朴一功先生は「古典ギリシア語ができるようになると君の魂はぐんぐんひきあがる」とか「古典ギリシア語の文法を学べば行動に抑制が生まれる」と仰っていた。筆写はとりあえず、アルファベットをまとめることができたが、発音のじつに細かいルールは音読してたたきこんでいる。東京の銀座にある教文館書店にプラトンアリストテレスの原書が売られているので古典ギリシア語を古川晴風先生の『ギリシア語辞典』を引きながら短文を訳すことができるレベルになったら、『ソクラテスの弁明』や『パイドロス』などの原書にアタックしていきたい。ラテン文学は『アエネーイス』に挑戦している。ラテン語は古典ギリシア語とシンクロしているので少しずつ学んでいきたい。

エセー5

古典ギリシア語を学ぶために机にある書棚を整理した。プラトンの対話篇とホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』。ドイツ語の辞書をどかして、フランス語の辞書とリドル&スコットの希英辞典を置いた。リドル&スコットの希英辞典は腹をくくって通読していきたい。ミミズがのたくった「暗号」を解読していくのだ。ほかにも、『アリストテレス全集17詩学アテナイ人の国制・断片集』を置いた。この版は今道友信先生が「詩学」を訳出しておられるが、現在出回っている版だと、朴一功先生が「詩学」を訳出なさっている。「アテナイ人の国制」は村川堅太郎先生が訳出されているが、プラトンの『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』(京都大学学術出版会)の重要文献とされているのでぼっちらぼっちら読んでいきたい。また、モンテーニュシェイクスピアの『ハムレット』や『マクベス』。ソフォクレスの『オイディプス王』などの悲劇にも私は「魅了」されている。しかし、目下のところは健康管理とプラトン哲学に集中していきたい。本当は西洋古典哲学のエキスパートである朴一功先生や納富信留先生のようになりたいが、ハードルが高すぎる。納富信留先生は『ソフィストは誰か?』のなかでソフィストつまり、弁論によってお金をもらっている人々がどのような生き様をめぐってきたのかを鋭く考察している。私が大学時代、朴一功先生に「教育についてかんがえたいのですが……。」と問うたところ、「『プロタゴラス』を読むといい」とアドバイスを頂いた。プロタゴラスソフィストだ。ソクラテスプロタゴラスの「知ったかぶり」から解放すべく、ソクラテス問答法によって論駁していく。私も「知ったかぶり」や「知っていると思い込んでいる」ことが多い。岸見一郎先生はソクラテス問答法ができる経験を活かして、アドラー心理学に基づいたカウンセリングを行っている。学者のことばかり書いていて迷宮に入りこんだ感があるが、池上哲司先生は「感情をロゴス化しろ!」と授業中生徒たちに訴えていた。そして、私にも文筆業を生業としていきたいという訴えに対して「モンテーニュの『エセー』を読むといい」とアドバイスを下さった。市立図書館でモンテーニュの『エセー』をかりた。モンテーニュは自宅の塔にひきこもって文筆活動を行っていった。ひきこもって鬱になったが、「書くこと」を通して鬱を緩和していった。エセーは「私」のことを見つめる内容になっている。私にとってはラテン文学の引用が凄まじく多く、とっつきにくい。学生時代まともに読めなかった。しかし、今になって読みかえすと「驚き」に満ち溢れており、くんでも尽きない源泉であることが身にしみてわかってきた。

エセー4

私は精神分析のやりかたにソクラテスの問答法を取り入れたいと考えている。アドラー心理学の岸見一郎先生が書かれた『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』のように。岸見一郎先生もアドラー心理学をやる前は西洋古典哲学の学徒だったのだ。私も三嶋輝夫先生が訳したプラトンの『アルキビアデス/クレイトポン』(講談社学術文庫)や朴一功先生と西尾浩二先生が訳された『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』(京都大学学術出版会)を読み終えた。そのなかでも「アルキビアデス」と「クリトン」のプラトン作品が私の心をとらえた。「アルキビアデス」は長めの作品だが、ソクラテスがアルキビアデスに挑む対話篇となっている。アルキビアデスは若く、政治思想を立派にもっているが、若さゆえのうぬぼれがソクラテスをかりたてている。「クリトン」はソクラテスが獄中にいるとき、クリトンというソクラテスの親友が脱獄うながすが、それは「よく生きる」ことに反していると、ソクラテスが拒否するシナリオとなっている。私は学生のときにレポートを書いた。「なぜ、ソクラテスは脱獄しなかったのか」というテーマで。現在、岸見一郎先生の著作を読んでいるが、西洋古典哲学の素養がエッセイの行間からうかがい知ることができる。プラトンには弁論術つかいのゴルギアスがあらわれる『ゴルギアス』という長めの対話篇がある。藤澤令夫先生が訳したもので読みこんでいるが、苦しみながら考え、苦しみながら読んでいる。また、ドイツのプラトン研究者ミヒャエル・エルラ―が書き、三嶋輝夫先生など一流の先生が訳出した『知の教科書プラトン』(講談社メチエ)もやや甘口な研究書だが、「プラトンってなぁに?」と他者に訊かれたときのために学術的に説明できるように読んでいる。いずれにしても古代ギリシア哲学の「洗礼」を京都で受けたい。このことは大学への復帰への希望でもある。しかし、デイケアに毎回行くことができない自分が「独り暮らし」のストレスに耐えることができるのか?それが問題だ。沼津で「市井の学徒」としていきることもできなくはない。悩みどころだ。

 

エセー3

私は精神分析家になりたい。しかし、これは妄想かもしれない。病気が生み出した妄想なのだ。最近、シュレーバーというパラノイア妄想の神経症の人が書いた『ある神経病者の回想録』という本とフロイトの『あるヒステリー患者の分析の断片』を読むようになって、自分が少し誇大妄想をいだくようになっているということを自覚するようになってきた。とくにシュレーバーの症例はグロテスクなのと書き方が実に細かいので「自己を見つめる」ことにはいい教科書だと思っている。しかし、京都の大谷大学時代に相談室の臨床心理士さんに「こういう症例は自分と距離をおいて読んだ方が良いよ」とアドバイスをいただいたことがあるので気をつけねばならない。木村敏先生の著作に関心がある。沼津市立図書館には木村敏先生の著作が少ない。だから静岡県立中央図書館にいってかりてみたいと思う。その著作をかりて統合失調症の当事者としてしたためることができたらうれしい。

追記

 私は以上の文章を臨床心理技官のデイケアスタッフに読んでいただいた。そのところ誇大妄想ではないと言われたのでほっとした。しかし精神分析は大学で学んでも少ししかやらないということと大学にはいったとして自分が関心のないことも学ばなければならないことを伝えられやはりと思った。そして臨床で学びたいのか教養として学びたいのか訊かれたので教養として学びたいと伝えたところセミナーのほうがいいとも伝えられた。心理の世界で実践の現場で使えるようになるには「最低6年間」学ばなければならないとも伝えられたのでうーんと考えこんでしまった。やはり教養として学んだ方がいいと考えている。

 静岡県立中央図書館にでかけた。そこで『木村敏著作集1 初期自己論・分裂病論』と『フロイトの生涯』、『ティンデル注解ヨハネ福音書』、『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』西尾浩二・朴一功(おふたりとも大谷大学の先生)訳をかりた。木村敏先生の著作はビンスヴァンガーの『精神分裂病Ⅰ・Ⅱ』の翻訳に触発された文章が多い。とくに初期自己論などは。まだ読み途中なので早くも決断的なことを特筆することはできないが、「離人症現象学」を読み終えてそう感じた。『エウティプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』は恩師である朴一功教授と大谷大学講師西尾浩二先生の力作的な訳業だ。論理的思考にうとい私に慈雨のごとく天啓を与える書だと確信している。『フロイトの生涯』は今読んでいるアーヴィング・ストーンの『小説フロイト』の種本となったであろう本だ。フロイトの生涯を微に入り際にわたり描いている。

エセー2

私は統合失調感情障害を抱えて生きている。フロイト精神分析学を学んで臨床に活かしたいという思いが強いが学びにくいので悩んでいる。フロイト全集(人文書院版)の1・2・3巻を読んでいて『精神分析学を学ぶ人のために』を読んでいるが、自分の病気と向き合うためだけで四苦八苦している。むかし大谷大学新宮一成先生の講演会があった(先生は自身がそばアレルギーだと語っておられた)。講演会を聴いたりフロイトのトーテムとタブー(フロイト全集第3巻収録)を読んだりしたが直接的に苦しみはなくなることはなかった。大学に復学するためにはお金の問題もある。バレエを大学時代にかじっていた。とはいっても、蘆田ひろみ先生に迷惑をかけただけだったが。法政大学の国際文化学部の鈴木晶先生に〝精神分析学は臨床で役にたつのか?〟と言う問いを議論していきたい思いが強いので自分のなかで精神分析学関係の書物を優先順位をつけて読んでいきたいとかんがえている。さいわいなことに叔父はフロイトの『精神分析入門』を読んでいるのでFacebookのMessengerでやりとりして臨床と学問との「あいだ」の溝について議論していきたい。私の理解するところでは「性欲」という「欲動」がキータームとなっており、それをフロイトさんは「リビドー」と規定し、「リビドー」が抑圧されるとそれにともなって「神経症」の原因になるらしい。あさはかならが、私の理解はその程度のものなのだ。私は自分をさらけ出すのが苦手だ。だからニーチェの『ツァラトゥストラ』の知見をかりてその爆発てきな衝動力をかりて「エセー」を書いている。話しは変わるが、私が河合塾という塾で浪人生時代に精神病理学者の木村敏先生が「ぼくが医者になった理由」というという題目で講演をしていた。私が理解できたのは「平均律クラヴィーアが良い」ということと「ぼくが医者になった理由は音楽が好きだったからです!」ことだけだった。また、親しみやすい語り口でしゃべっておられることが印象的であった。

エセー

私はニーチェの『ツァラトゥストラ』を原文で読むために『CDで学ぶドイツ語入門』のCDを聴いている。そしてニーチェが傾倒していたワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』も聴いている。そのエネルギーはすべて精神分析学のフロイトの仕事を学ぶ原動力となっている。将来はフロイトが学んだウィーン大学に留学をしたい。私はとてもあせっている。妹が薬剤師の国家試験に受かり、就職も決まっているためだ。実存の危機に向かっていると私は勘違いをしている。そこに出てきたのがニーチェフロイトだ。フロイトの知見をかりて自分の病(統合失調感情障害)の寛解を目指していきたい。しかし、そんなことでは寛解はできないだろう。規則正しい生活とベンゾジアゼピン系の薬の減薬。そして、適度な運動が必要になってくる。大学に復学していきたいという気持ちがとても強い。今度は哲学ではなく、精神分析学を学びたいそのために大正大学や法政大学に入学したい。受験は精神的に負担になるだろう。しかし、自分の体験を活かして精神医学や心理学通して医療の現場にささやかながらでもいいから貢献したいのだ。