静岡県立中央図書館に行ったら・・・・・・。

 沼津から草薙まで東海道線に揺られて静岡県立中央図書館に行ったときのこと、カール・バルトの『教会教義学』トマス・アクィナスの『神学大全』などの神学書を借りて帰りの興津行きまでの電車に飛び乗った。当然のことながら、興津行きでは沼津駅には着かず、興津で降りることになった。熱海行きの電車を待っていると隣りのベンチにある石鹸が置いてあった。よくみるとギリシャ文字が書いてあるではないか!説明書きには、

パポタ二スピュアオリーブオイルソープ

赤ちゃんから乾燥肌におすすめしたい。お肌と環境にやさしい無添加石けんです。

 これは神様からの贈り物に違いないと思ったぼくは誰もいないことを確認して鞄の中へ「隣人の物を欲しがってはならない」の教えに反することはわかっていても異国の物の芳しい香りには勝てずその緑色の石鹸を我が物にしてしまった。

無事家路に着くと早速手を洗ってみる。すると、手にオリーブの微かな匂いが、さすがギリシャ製の石鹸だ。

 

佐藤優先生に学ぶノート術

 皆さんは佐藤優先生をご存知ですか?彼は元外交官で同志社大学大学院神学修士号を持っていて今は作家として評論家として多方面に活躍しています。中でも『獄中記』が有名です。東京拘置所513日間勾留している日々をユーモアを交えながらも虎視眈々と人間とは何か国家とは何かを考察しています。ぼくは佐藤優先生の著書はだいたい読みました。佐藤優のノート術にこだわりを持っていて見開き1ページに引用コメントを圧縮してノートを取っています。

 左ページに本の書き抜き、右ページに自身のコメントを疑問点を書くのだそうです。これを最初にやった人はレーニンだそうです。佐藤優先生もレーニンのノート術から学んだそうです。

 ちなみにぼくも佐藤優式ノート術にこだわり左ページを本の抜き書き、右ページをコメントや疑問点、転用を書き記している『神学ノート』を書いています。

神学入門

どうもふじさわのりおと申します。

沼津市出身のクリスチャンです。聖書を読んでわからないとつまづいているそこの貴方、まずは『ヨハネによる福音書』を読んでごらんなさい。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」

聖書協会新共同訳聖書『ヨハネによる福音書』1:1〜5

キリスト論の白眉のロゴス論がいきなり冒頭からわかります。神学者の多くはこの第四福音書をまず開いて調べます。その前のマタイ・マルコ・ルカの福音書は共に観る福音書と書いて、共観福音書と神学では呼ばれています。イエス・キリストの生涯を描いているのが「福音書」と呼ばれる書物なんですけれども、ユダヤ人の視点から描かれているのが、『マタイによる福音書』です。医者のルカが書いているのが『ルカによる福音書』そしてルカは『使徒言行録』も執筆しています。『マルコによる福音書』が最もスピーディにイエス・キリストの生涯を追える福音書となっています。

 しかし、『ヨハネによる福音書』は共観福音書と違い、冒頭にロゴス論が書かれている。そこが第四福音書と呼ばれる所以があるわけです。

 

ギリシア語

 『新約聖書ギリシア語文法』でコイネーギリシア語を学んでいる。この文法書を著した織田昭さんはギリシアギリシア語を学ばれた人物なので現代ギリシア語についてもかなり詳しく書かれている。ギリシア語は不可思議で難しい言語で「とっつきにくい」印象がぬぐえないが、この文法書のおかげでずいぶんと楽しく学ぶことができている。キリスト教でよく唱えられる「主の祈り」をルーズリーフに書き写し、カナを振って発音練習もかねて毎日唱えている。

 プラトンアリストテレスが生きていた時代のギリシア語は「アッティカ方言」のギリシア語といって俗に言う「古典ギリシア語」と呼ばれている。しかし、「現代ギリシア語」は新約聖書の「コイネーギリシア語」に近い。

ブルックナー交響曲第8番

 図書館で借りてきた朝比奈隆さんが指揮をしている盤でとても力強い。金管楽器の使い方が繊細になっている。大きなうねりとスケール感が魅力的な曲に仕上がっている。ブルックナーの音楽にはブルックナー開始とブルックナー休止とがありそれらが曲のアクセントになっている。ブルックナー開始とは、弦楽器のトレモロから始まることを表しており弦楽器がとろとろと音の粒たちがそろって演奏を開始することである。一方、ブルックナー休止とは、楽器全てがぴたっと休止することで場面展開を切り替える役割を果たしている。

 第一楽章では宇宙観を表すような表現と大自然を表すような表現が渾然一体となって音に現れている。

 第二楽章では教会の大伽藍を思い起こすような緻密で繊細な表現に感動させられた。特に弦楽器のトレモロの美しさは絶品である。

 第三楽章ではダイナミックに曲が展開し、弦楽器とホルンなどの金管楽器雄大に鳴り響いている。第四楽章のための助走を先取りするミュージックエスケープ(音楽が作り上げる空間)になっている。また、夕方の情景を美しく表したような曲調である。

 第四楽章ではこの曲の総決算的な意味でのフィナーレが繰り広げられている。特に金管楽器が主役的な役割を果たしている。

ブルックナーは教会のオルガニストでかつ敬虔なカトリックのクリスチャンだったので神様への畏敬の念が強かったことがブルックナー交響曲に現れている。そして、ブルックナーは同じリズムを繰り返すことが好きであったので、くどいし飽きてしまうかもしれないが、クラシックファンのあいだでは玄人好みでマニアックと評判が高い。

モンテーニュの『エセー』について

 モンテーニュはフランスのボルドーの市長を務めたことがある政治家でもあるが、『エセー』という精神の赴くままに書いたブログのような文章を書いたことで名高い。僕は学生時代「エッセイを書きたいのですけれど」と指導教官に尋ねたところ、「モンテーニュの『エセー』を読んだほうがいいよと言われました。今でもその言葉が耳の奥にへばりついて離れません。保刈瑞穂さんの研究書を読みながら、理解を深めています。

 モンテーニュは現代で言えば、「フリーランスの名ブロガー」なのかもしれません。

フルトヴェングラー生誕80周年記念放送(旧東ドイツ放送局、1966年1月25日)ブルックナー交響曲第9番ニ短調(原典版)を聴いて

 唸るようなオーケストラレーションに度肝を抜かれました。そして、テンポはかなりゆったりめで緊張感がみなぎる演奏だと思いました。私の感覚ではフルトヴェングラーはかなり大胆な演奏をする指揮者だと思っていましたが、これほどまで細やかで繊細なブルックナーの第9番は聴いたことがありませんでした。朝比奈隆さんやヴェンツァーゴ、インバルのブルックナーの第9と本格的に聴き比べたくなりました。確か、フルトヴェングラーが20歳の時のブルッックナーの第9も素晴らしいと思っていたところで、親友からフルトヴェングラー生誕80周年記念盤が出てプレゼントしたいと連絡を受け、驚きました。第二楽章の地鳴りのような響きの中に真珠の様な輝きがある序奏部を聴いたとき深い感動をおぼえました。燻銀のようなオーケストラの響きにはギリシア彫刻を彫っていく芸術的所作を垣間見ることができました。時代の重みは弦楽器の歯切れの良さと響きの重みの中に表現されていました。ブルックナーが目指したであろう宗教的美学をフルトヴェングラーは自身の生き様と照らし合わせながら指揮とオーケストラレーションで表現しているなと感じました。私はハース版のブルックナー第9番のCDをつい最近手に入れたのでその違いにもまた研究していこうと思いましたね。長くなりましたがフルトヴェングラーの演奏するブルックナーの魅力を伝えたいと思い書き込みました。もしよろしければフルトヴェングラーの演奏するブルックナーの「ここが魅力!」ということを是非コメントで教えていただけないでしょうか?お待ちしております。