失われた時を探して2 沼津

沼津の町は田舎だ。ぼくは市立図書館に行ってキリスト教系の音楽を借りて自宅警備をするのが仕事だ。というか、ニートだ。クリスチャンであるので食種がそっち関係に動く。ネタはほとんど市立図書館で仕入れている。マルセル・プルーストとであったのも、市立図書館だ。沼津の市立図書館はぼくにとってサロンなのだ。音楽をかりて本を10冊弱かりて日々の鬱憤をはらすのだが、家に帰ると読む気がおきなくなってしまうヘタレだ。

 クラシックが好きでしかたがない。特にバッハが大好きだ。バッハの曲を聴くといい意味で現実逃避が着実におこなわれる。まあ、現実逃避にもいいわるいもないだろうが。現実を直視することはニートにとって苦痛のなにものでもない。みんな社会に適応するために勤労している。しかしぼくはなにひとつ勤労の義務をはたしていない。毎日、後ろ髪をおもいっきりひっぱられる思いだ。ゼロから物事を創りだすひとにとてつもない憧れを感じる。詩人・作家・脚本家・映画監督など。なれるはずのないことに憧れをもってしまう不幸な体質は幼少期にもあった。九九もおぼつかないのに「数学者になりたい」といってみたり、高校では「医者になりたい」とぼやいた。そのぼやきは数学の先生の「計算がおそすぎる」といわれ木っ端みじんに壊れたが。

 マルセル・プルーストのようにコルク部屋にひきこもっても社会が許してくれる日本なればいいなと思う。日本は歪んでいると思う。もちろんこれは悪い意味で。自殺者は多いし、精神薬のオーバードーズは日常茶飯事だ。そこでぼくは脳内でフランスをこしらえるという危なげな妄想をすることによって危機的なこころのバランスをたもつことにした。どんなことにおいてもちょっとした工夫は必要だ。語学学校で有名なアテネ・フランセで『失われた時を求めて』を原書で読めるだけのフランス語の語学力をつけていきたい、と言う妄想。お金が必要なので叶うかわからない。だから妄想するのだ。

 クラシック・バレエを評論する評論家になりたい。それはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』とバッハの『マタイ受難曲』を客観的に論考することができたら評論家になれると考えている。そして生のクラシック・バレエに触れることから始まると思う。理想と現実は乖離しているが、書き留めていく営みは大切にしていきたい。

 沼津はアイドルが盛んだ。アイドルといってもアニメのなかのスクールアイドルだが。ファンが毎日、マルサン書店に押し寄せてくる。ぼくもアニメをみはじめたところだ。無から有限を生み出すのはとてつもないエネルギーをようする。ぼくははじめアイドルに嫌悪感を感じていたが、真面目にみはじめてみるとかなり体育会系だったり思想がもりこまれていたりする。それが魅力なのだろう。アイドルのエネルギーは爆発的だ。心臓にこだまする血潮の流れだ。

 演劇やクラシック音楽に関心があって、その燃え滾る気持ちを綴っている。書いて考えは書かなければならない。大学時代の恩師がしきりに「感情をロゴス化しろ!」と叫んでいたことが今では懐かしい。その恩師も名誉教授になってしまった。演劇の脚本を書いてみたい。いづれは映画につかいたい。めざすは岩井俊二監督、ジャン・リュック・ゴダールだ。戯曲だ。戯曲をかかなければならない。

 バッハの『マタイ受難曲』をここのところヘビーローテーションで聴いている。むかし、日本の作曲家で有名な武満徹はこの曲を作曲するまえによく聴いていたそうだ。ぼくは合唱団にはいっていたことがあり歌の曲が、と言うか合唱曲好きなのでよく聴いている。

 演劇の勉強のためにジャック・ドゥミ監督の『ロシュフールの恋人たち』をTSUTAYAでかりた。フランス語も勉強したい気持ちが強い。また、一過性の「フランス語ブーム」になる可能性大だ。息長く物事に取り組みたいのだが、なかなかうまくいかない。牧師さんが「イエスさまは自我を徹底的に打ち砕きます」と日曜日の説教のときに声を大にしておっしゃっていた。だから、信仰に生きようとしたときにつまづくのだ。しかし、イエス様は期待以上の結果をもたらしてくれますともおっしゃってくれたのでぼくはほっと胸をなでおろした。

 TSUTAYAジャンキーになっているから、いっそのこと「ヌーベルバーグ」の作品を制覇しようかと思う。それから、バーンスタインが音楽を担当している『ウエストサイド物語』もみてみたい。

 戯曲のほうは手書きで執筆していきたい。朝井リョウの「何者」の拓人みたいに。創造するひとでありたい。それがたとえ社会にみとめられなくても。朝になると強烈な死にたみに襲われる。うつもサインバルタカプセルで緩和されたがまだある。「はやく人間になりたい」ものだ。

 作曲家になりたかったが、楽譜が読めないのでむりだった。井上ひさしさんは物を書くとき「悪魔が降りてくる」らしい。デモーニッシュな体験なのだろう。自閉症傾向がぼくにはあるらしい。いつか診断書をみていたらそう書かれてあった。やっぱりな、とぼくは思った。人付き合いが苦手だし、バイトや就労支援施設に通うこともできない。デイケアはかろうじて通うことができている。これは奇蹟としかいいようがない。

 究極のししゃも曲はJAZZかもしれない。音と音があいだを競い合って調和している。最近、映画『ラ・ラ・ランド』の影響でJAZZを聴き始めた。難しい印象があったが、「これは究極のししゃも曲」と割り切って聴いている。もしぼくが映画監督になったらJAZZか体操競技を題材とした映画を撮ってみたい。JAZZピアニストのキース・ジャレットもクラシックの名曲バッハの『平均律クラヴィーア』を弾いている。クラシックとJAZZは相性がいいのだろう。しかし、即興性と言う点かみるとJAZZに軍配があがりそうだ。

 JAZZはマイルス・ディビスとセロニアス・モンクが好きだ。どちらも正統派だが独自の進化をとげていった。ある意味JAZZの即興性は落語に似ているかもしれない。JAZZは魂と魂のぶつかりあいを具現化したものだ。それ以上でもそれ以下でもない。トランペットが咆哮をあげ、ピアノが語りだす。そうJAZZは物語なのだ。裏打ちのリズムがクラシックに道場破りを仕掛けている。

 リストの『超絶技巧練習曲集』を聴いている。弾いているのはアリス=紗良=オットさん。激しくかつ艶めかしい。音のつぶがきらきらしている。そう、グレン・グールドのように。キース・ジャレットよりもリヒテルの演奏にひかれるようにアリス=紗良=オットの演奏にひかれてしまう。リストは『巡礼の年』もかりてきたので詩や小説において具現化していきたい。

 リストはまるで宇宙そのものだ。すべての事象をまるめこんでしまう。激しさから美しさへと華麗なる昇華をはたすのだ。ぼくのような蛮族には似つかわしくないかもしれない。余談だが、リストとショパンは友人だった。白黒映画だが『別れの曲』というショパンの自伝的作品のなかでリストとショパンが連弾するシーンがある。

 ぼくの頭のなかではJAZZ・クラシック・映画がカオスな状態で野放図とかしている。整理したいのでキャスでしゃべりたいのだが、うまくまとまらない。Skypeでさえも人に伝わる言葉でしゃべることができない。どうにかならないものか。

 この小説は夜、ぼくが眠剤投下したあとで執筆しているので重複する部分があるとおもわれるがそこのところはかんべんしてほしい。これはぼくのためのセラピーなのだから。

 ヴァルター・ギーゼングのバッハの『平均律クラヴィーア』を聴いている。速くて迫力がある。希死念慮もふっとぶので友達におすすめしたい。スレレオ録音ではなく、モノラル録音なので温かみがある。キース・ジャレットと言うJAZZミュージシャンも『平均律クラヴィーア』を弾いているが、アレンジなしのストレートな出来になっている。

森鴎外ブームがきているいまここに。ゲエテのファウストを借りてしまった。森鴎外、本名森林太郎。軍医で文豪のエリートだ。私はエリートを好む。なにもしないで顎で人をこきつかうことができる魔法をもっているからだ。こう書いたらどこから石が飛んでくるに違いない。ゲーテファウスト森鴎外が翻訳したものは極めて難解だ。ゲーテ全集の翻訳のほうが実は江戸っ子のべらんめい調でしっくりくる。死にたみをぶっ飛ばす破壊力はゲーテ全集のわかりやすい翻訳に軍配があがる。市立図書館で借りたのは本だけではない。CDも借りた。もちろんクラシックである。当たり前であろう。クラシックとJAZZしかおいてないのだから。マーラーワーグナーを借りた。フォロワーさんに「しぶいね」と言われてしまった。ワーグナーはしぶいのか。慧眼である。

 マーラーは珍しくカラヤン指揮の盤を借りた。しかもメジャーナンバーの5番。マーラーはぐにゃぐにゃした音楽と甘美なメロディがカクテルされているので好きな人はだいちゅきだが、嫌いな人には嫌悪感を抱かせるミュージックだ。マーラーは実はフロイトの診察をうけている。「こんな妙なる音楽を創りあげるとはさぞ精神がクレイジーにちがいない」とウェキペディアで調べたところ矢張りそうであった。ラッパの音が兎に角やかましい。ラッパ好きに捧げるべきである妻のアルマではなく。「カラヤンは硬い」と叔父の仰っていたとおりがちがちの音楽だ。迫りくるメロディに圧倒されてしまう。カラヤンは眼をつぶって指揮することで有名だ。暗譜しているということだ。言語を絶する。こんなぐにゃぐにゃミュージックを暗譜するとは神は違う。帝王とよばれるだけあるものだ。

 オペラを聴くことにはまっている。上にあげたワーグナーもそうだが、リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』やモーツァルトの『魔笛』が好きで良く聴いている。そして村上春樹の研究や英語とドイツ語の研究が好きになってしまった。ドイツ語で歌われているオペラが好きなため自然とそうなったのだろう。歌詞がドイツ語のためなにをいっているのかわからないが、関口存男ドイツ語講座を読んでいるのでなんとかなるだろう。通しで聴きたいが幾分長いので閉口してしまう。3時間はくだらないのだ。地下室の2階にもぐって散策し物語を紡ぐ責任がぼくにはある。そのためのネタ探しをしているのかもしれない。地下室の2階とは、日常はふつうの1階でプライベートは2階、地下室の1階は秘密の場所。そして地下室の2階は誰もが持っている集合的無意識の場所のことだ。

 これを書いているぼくはかなり実存的に危うい状況にたたされている。つまり地下室の2階にうずくまっている状況なのだ。余裕がまったくない。オペラを聴く余裕のかけらもないのだが、あえてオペラを聴いている。オペラを聴くことで「余裕」を創りだしている。苦悩に近いのかもしれない。今宵は長くなりそうだ。村上春樹の『騎士団長殺し』にはモーツァルトの『ドン・ジョバンニ』とリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』が物語を牽引している。

 オペラの醍醐味は聴きながら想像力をかきたてられるところにあると思う。特に『ばらの騎士』は前奏がとてもメロディアス。とろけそうだ。村上春樹の『騎士団長殺し』でも執拗に暗喩として出てくる。ドイツ語なので閉口してしまうが、それを忘れてしまうくらい甘い。市立図書館で借りてきたCDで聴きながら雑談のように『ばらの騎士』を転回していけたらと思う。話しがぽんぽん飛ぶので『魔笛』の話しとちゃんぽんになるかもしれぬは。

 ぼくは川村カフカのすすめでオペラを聴くようになった。川村カフカカフカ作品の翻訳を行っていた。川村カフカがおすすめするオペラは『ばらの騎士』と『トリスタンとイゾルデ』だった。川村カフカ沼津市立図書館の近くに住んでおり、地下室で夜な夜なカフカの翻訳やレイモンドチャンドラーの翻訳をおこなっていた。地下室の2階は暗く、「顔なし男」がときどき現れた。「顔なし男」は文字どおり、顔がなかったが、フランツ・カフカその人そのものだった。ぼくも川村カフカのところへ遊びにいったが、「顔なし男」を見たことがあるが、『城』というフランツ・カフカの長編をかいていたことがあった。地下室は暗くランタンの光がたよりだった。何本かのろうそくの光にも助けられた。

 ぼくは村上春樹になりたかったし、川村カフカをその能力から尊敬していた。川村カフカは無意識の閾にひきずりおろして物語を創作することができる。物語を創りだすためには意識からとんで行かなければならない。そう、冥府(ハデス)に行くように。川村カフカは冥府(ハデス)に行くことがとてつもなく得意だ。ぼくは冥府(ハデス)に行くために川村カフカの地下室の2階でフルトヴェングラー指揮のワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を聴くことにした。ワーグナーの和声はとろけそうだ。構成がリヒャルト・シュトラウスよりもしっかりしてわかりやすい。