マーラーの交響曲第5番
マーラーの交響曲第5番は妙なる調べを響かせている。トランペットの響きからはじまり、うねうねとユダヤ教の曼荼羅を表現しているようだ。マーラーの真骨頂ここにあり、と言わんばかりだ。これはもはや哲学だ。聴衆はこの妙なる調べを解き明かしていくしかない。ひとり、ひとりで。苦悩するマーラーの姿が調べの一音一音に表されている。細かい指示がことこまかく楽譜に書きこまれているのだろう。トランペットの3連符がしつこいが、それが効果的に聴衆をマーラーワールドへいざなってくれる。そこには苦悩・不安・絶望・希望・悟りが入り混じっている。第5番の調べは、マーラー自身の小宇宙ではなかろうか。霊性的な鉱脈が湧き出ている。
かと思えば、自由奔放さには度肝をぬかれてしまう。マーラー自身指揮者であったため、オーケストラの楽器の特性を知り尽くしていた。だから、個性を全面に押し出した調べの交響曲を書くことができたのではあるまいか。
第5番はなにか「さすらう」感じがあり、安定というものを欠いているようでならない。しかし、調べをよく聴いてみると一音一音がきらきらと輝いている。ため息がでるくらいに。まるで魔法のような調べだ。そして、マーラーは一楽章、一楽章の終わりに「ど派手」な終わり方をこの曲で聴かせている。
マーラーの交響曲第3番
マーラーの交響曲第3番の響きは、不可思議な光に包まれている。禅のリズムでとてつもなく繊細だ。曼荼羅や道元の『正法眼蔵』の世界観を現成させているようでならない。マーラーの神経的な苦悩を驚くべき密度で表現している。まるでお花畑を歩いているような心持ちになってしまいそうなメロディーが後半に展開されている。
神経衰弱におちいったときにはこの曲を聴くと良いかもしれない。フルートの響きが重く、そして美しく広がりをみせている。前半部の劇的な主題には驚かされ、私はある種の「とっつきにくさ」を感じたが、後半部になるにしたがってマーラー独自のジューイッシュ的なデーモン性を発揮し、ここちよい心持ちに聴衆をいざなう。マーラーの交響曲は、フルートやピッコロそしてホルンが緻密な曼荼羅を描いている。
マーラーの交響曲第2番
マーラーの交響曲第2番《復活》は西洋のキリスト教の「霊性」を含みながらも、ユダヤ教の「霊性」も含んでいる。私はこの曲をはじめて聴いた時、驚きを隠せなかった。とてつもない序曲にはじまり、聴衆をぐいぐいと引き寄せるとてつもない力を秘めている。曼荼羅のような東洋的な緻密さをかねそなえながら曲は進んでいく。私は激しいうつ状態にさいなまれた時、この曲を聴くことにしている。
とてつもなくダーティな曲だが、同時に光を与えてくれるため全体の「しくみ」は健在だ。しかし、この交響曲《復活》は後半へ進むごとに「祝祭的」な様子が色濃く反映されている。確かに〝底抜けの明るさ〟はこの曲を形容するにはふさわしくない。しかし、光は確かにある。人間の辛さを光明のごとく照らす。マーラーがこの曲を書いた背景は私には知らないが、この曲にはなにがしかの言葉には形容できないメッセージがこめられているのだろう。
グリコのおまけ気分で歌を最後にもってきたのではあるまい。マーラーの光明のごとき歌にはだれあてにもわからぬメッセージあるいは手紙が書かれているのではあるまいか。
マーラー交響曲第9番
マーラー交響曲第9番はとてもジューイッシュで東洋的な響きに満ち溢れている。私は魂を落ち着かせたいときにこの曲を聴くようにしている。特にバーンスタインの指揮はまるで魔法のようだ。繊細にして大胆。マーラーは楽器の特性をすみからすみまでわかっているようだ。特に第9番はホルン、ティンパニーが素晴らしい効果を発揮している。仏教の世界の涅槃を表現しているようにとらえなくもない。
私はマーラーの交響曲のなかでもこの第9番と第2番が大好きだ。第2番についてはおいおい書きこんでいくつもりだ。第9番はマーラーのなかでも「宗教について」響かせている。ある種のデモーニッシュな響きだが、マーラーの根底にあるユダヤ教が響きのなかでたちあらわれている。