失われた時を求めて カフカとハルキとオペラ 5

 ぼくは地下室ではなく、頭のなかに「黒い森」をこしらえることにした。いわば現実から遠く離れたところに身をおきたいのだ。「黒い森」はいわゆる「樹海」とは違う。ユングでいう普遍的無意識の世界だ。そこでは現実から離れて魂の充電をおこなう。いわば現実逃避だ。「黒い森」には、ぼくがこしらえた「黒い家」があり、そこにはたくさんの本や書類があり、まるで山小屋のようだった。「黒い家」には湖があった。夏になると泳ぐことができた。まるでカナダのシムコー湖畔のようだった。ぼくは苦しいときやしんどい時に「黒い家」に1週間ばかり引きこもる。ぼくの大学の先生は「引きこもることはいいことだよ」と言っていたことを「黒い家」に入るたびに思い出す。「黒い家」にはモーツァルトの曲が入っているレコードがたくさんある。ぼくはモーツァルトの『魔笛』と『ドン・ジョバンニ』の曲が大好きだった。頭のなかにこしらえたものなので想像でしかない。しかし、それらは確実に神経を休ませてくれた。本物の『魔笛』と『ドン・ジョバンニ』は川村カフカの地下室の2階に存在した。モーツァルトはドイツ・オペラも書くことができたが、イタリアン・オペラ(『ドン・ジョバンニ』)も書くことができたのだ。

 「顔なし男」はプラハから沼津へ帰ってきた。川村カフカとぼくとクミコは驚いてしまった。「顔なし男」に顔があったためだ。その顔は作家であったフランツ・カフカそのものだった。川村カフカとぼくとクミコで「顔なし男」はそのままの呼び名でいいか話し合ったが、そのまま「顔なし男」と呼ぶことにした。「顔なし男」はある男を幽霊として沼津につれてきた。男の名はグスタフ・ヤノーホだ。グスタフ・ヤノーホはフランツ・カフカと対話した男で本も出ている。『カフカとの対話』と言う本でフランツ・カフカがグスタフ・ヤノーホと「せきららな」対話を書きとめている。やはり『審判』と『城』を読むべきだ。これは運命だとおもった。

 ぼくは大学に行き直してドイツ文学を学びたいと思いはじめるようになった。以前は京都の大学であったが、今度は東京の大学へ行きたい神学もかじりたかったのでJ大学へ行くことにした。29歳のひよっこがいけるかどうかもわからない大学に行こうとしている。これは正気ではない。冥府(ハデス)の空間。29歳のひよっこがいけるかどうかもわからない大学行こうとしている。これは正気ではない。ハデスの空間。そう、クミコがイタコの姿でハイデガーを呼び出していた時、「顔なし男」はグスタフ・ヤノーホと話し合っていた。現代人の孤独、精神病と社会とのシステム、創作することの意味など難しい話題であった。グスタフ・ヤノーホの幽霊は律儀でフランツ・カフカよりも絶望を抱えているようにぼくには見受けられた。

 ぼくは夏目漱石の『虞美人草』と『道草』を精読することにした。漱石の文体は独特で漢文と英米文学の影響を受けている。フランツ・カフカの『城』と『審判』と<集合的無意識の物語>と通じるところがある。夏目漱石は神経衰弱を抱えていた。そのセラピーとして小説を書いていた部分が大きい。クミコにイタコとして夏目漱石を呼び出してほしいと頼んだがあっさりと断られてしまった。そのかわりグスタフ・ヤノーホにあらわれてもらったところ、「井戸にもぐりこんだらよい作品が書けるだろう」と言う答えが返ってきた。