マーラーの交響曲第2番

マーラー交響曲第2番《復活》は西洋のキリスト教の「霊性」を含みながらも、ユダヤ教の「霊性」も含んでいる。私はこの曲をはじめて聴いた時、驚きを隠せなかった。とてつもない序曲にはじまり、聴衆をぐいぐいと引き寄せるとてつもない力を秘めている。曼荼羅のような東洋的な緻密さをかねそなえながら曲は進んでいく。私は激しいうつ状態にさいなまれた時、この曲を聴くことにしている。
 とてつもなくダーティな曲だが、同時に光を与えてくれるため全体の「しくみ」は健在だ。しかし、この交響曲《復活》は後半へ進むごとに「祝祭的」な様子が色濃く反映されている。確かに〝底抜けの明るさ〟はこの曲を形容するにはふさわしくない。しかし、光は確かにある。人間の辛さを光明のごとく照らす。マーラーがこの曲を書いた背景は私には知らないが、この曲にはなにがしかの言葉には形容できないメッセージがこめられているのだろう。
 グリコのおまけ気分で歌を最後にもってきたのではあるまい。マーラーの光明のごとき歌にはだれあてにもわからぬメッセージあるいは手紙が書かれているのではあるまいか。

マーラー交響曲第9番

マーラー交響曲第9番はとてもジューイッシュで東洋的な響きに満ち溢れている。私は魂を落ち着かせたいときにこの曲を聴くようにしている。特にバーンスタインの指揮はまるで魔法のようだ。繊細にして大胆。マーラーは楽器の特性をすみからすみまでわかっているようだ。特に第9番はホルン、ティンパニーが素晴らしい効果を発揮している。仏教の世界の涅槃を表現しているようにとらえなくもない。
 私はマーラー交響曲のなかでもこの第9番と第2番が大好きだ。第2番についてはおいおい書きこんでいくつもりだ。第9番はマーラーのなかでも「宗教について」響かせている。ある種のデモーニッシュな響きだが、マーラーの根底にあるユダヤ教が響きのなかでたちあらわれている。

ブルックナー交響曲第3番ピアノ番

ブルックナー交響曲第3番のピアノ版をきいている。これは私の好きなマーラーが編曲したものだ。オーケストラをピアノで聴く豊かさがつめこまれている。ブルックナー交響曲第3番は《ワーグナー》ともよばれていて、ワグネリアンが好きそうな曲だ。本家の交響曲をマイルドにした感じが好きだ。ブルックナー交響曲は基本的に「激しい」。ピアノの幽玄な響きが私の霊魂のを癒してくれる。この作品は私の大切な友人からのプレゼントだ。実験的な作品なのでどこかオリヴィエ・メシアンに通じるところがあるかもしれない。「ブルックナー休止」やその他の技法があますところなくピアノで表現されている。

音楽を文章化することは難しい。ブラームス交響曲第1番について。

もうすぐブルックナー全集、マーラー全集、ブラームス全集が友人から届く。楽しみでしかたがない。ブラームスは個人的に第1番交響曲が好きだ。小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラが奏でている。重苦しい第一楽章が意外と好みだ。

 

第4楽章が華やいでいるのになんでこんなに重苦しいのだろうという疑問は尽きない。図書館で調べてみようと思う。おそらく、吉田秀和氏の評論にかかれているに違いない。

 

しかし、もうすぐ前述したかつ丼大盛りが届くので覚悟せねば。

シャーロキアン

シャーロック・ホームズにはまっている。きっかけはイギリスのドラマSERLOCKをDVDで見はじめたからだ。小説を図書館で借りてむさぼるように読んでいる。また、シャーローック・ホームズの生みの親であるコナン・ドイルの評伝も借りてきてはよんでいる。そしてついには最近出たマリア・コニコヴァ嬢が著した『シャーロック・ホームズの思考術』までよみだしているのだからもうとまらない。

世界ではシャーロック・ホームズの熱狂的なファンのことを〝シャーロキアン〟と言うらしい。そうなるとぼくもシャーロキアンということになるのではないか。これで人と人とのつながりができていければなぁと切実に感じている次第である。

また、シャーロック・ホームズ関係でおもしろい本があったら随時このブログにアップしていこうと思うのでみんなでシェアできればとおもう。